野呂佳代「本当に辛かった」念願のAKBメンバーデビューも、その後の“暗黒アイドル時代”を涙の告白
俳優の野呂佳代が18日放送の『1周回って知らない話 3時間SP』に出演。仕事がなく、腐りきっていた時代を涙ながらに告白した。
昨年大ヒットしたテレビドラマ『ブラッシュアップライフ』や大河ドラマ『光る君へ』、さらにカンヌ国際映画祭に出品された映画『怪物』など数々の話題作に出演。今や「野呂佳代が出演するドラマはハズレなし」と言われるほど、出演のオファーが絶えない野呂。しかし、そこに至るまでには、仕事がなく腐りきっていた時代があったという。
1983年東京都板橋区に長女として生まれ、4人家族で育った野呂。小学生の頃からテレビが大好きで、月9ドラマ『101回目のプロポーズ』を観て、武田鉄矢と浅野温子の名シーンを1人で完コピ。俳優として芸能界に入ることを夢見るようになった。母親も応援してくれて、高校生の頃には映画やドラマ・芸能事務所主催のオーディションに片っ端から応募するようになるが、結果は全落ち。
そして、気づけば22歳…野呂に最後のチャンスがやってきた。ヒットメーカー秋元康がプロデュースするアイドルグループの募集。そこでどうしても受かりたかった野呂は、年齢を20歳、足のサイズも5㎜サバを読み、25㎝で応募。おまけに写真も縦に引き伸ばし細く見せていた。もちろん面接では正体がバレ…審査員の誰もが落ちたと思ったその時…「君いいね、面白いじゃん」と声を上げたのがAKB48の生みの親、秋元康だった。こうして秋元の鶴の一声で応募総数およそ1万2000人の中から、大島優子らと並び、AKB2期生17人の1人として見事合格。
秋元は、当時を振り返り「まずマネジャーが飛んできて“年齢詐称です!”と。衣装部からも足のサイズをウソついてましたってくるんですよ。で、もうみんなが“そんなウソつきのやつは落としましょう”って言ったんですけど、いやそこまでウソつくやつは面白いと。逆に入れようっていうのが一番のスタートですかね。でもウソつきです。バンジージャンプをやったんですけど、体重ウソついて川の中まで突っ込んだ人ですからね」と笑った。
2006年に晴れてAKB48のメンバーとしてデビューした野呂。家族も喜び、イベントにはほとんど来てくれたという。しかしここから、野呂を腐らせる想定外のことが続々と起きていく。

まずデビュー後すぐの握手会では、5歳年下で同期の大島優子との圧倒的な人気の格差を目の当たりに。さらに、秋元康から思いもしない提案が。それは7歳年下の同期、佐藤夏希と漫才コンビを結成すること。俳優を目指しアイドルになったら“お笑い担当”に。戸惑いを隠せない野呂だったが、秋元康を信じ、劇場の幕間で漫才を披露していた。
しかし、アイドルのイメージを捨てた自虐ネタをやってもあまり受けず、内心モヤモヤした気持ちのまま、お笑いをこなしていたという野呂。本心ではやりたくないお笑いをやらされていることに対して1人の時には涙し、途方に暮れていたという。
2009年、AKB48は初のシングル売り上げ1位を記録するなど世間が大注目するアイドルグループに急成長。この人気にあやかり、野呂のモチベーションも上がっていく…はずだったのだが、奈落の底に突き落とされる、ある出来事が起きる。
勢いに乗るAKBから、まさかの新しいグループSDN48への移籍勧告。SDNは通常の48グループとは少し異なり、AKBで結果を残せず20歳を越えたメンバーや、AKBではない外部のタレントもかき集めた、いわば後がないアイドルたちによる崖っぷちのグループ。
それでもキャプテンを任されたため、初めはなんとかモチベーションを保っていた。しかしスタッフから「今回衣装の露出が高いから細い子中心で行くわ」と、キャプテンなのに幾度となく選抜漏れ。野呂は、仕事に対するやる気も無くしていく。公演は毎週土曜の夜のみ。ずっと暇で、26歳の当時は休みに家族で海に出かけたりしていた。その後、公演に出かける野呂を母親は笑顔で「行ってらっしゃい」と見送っていたという。
野呂は当時の心境について「すごい病むじゃないですか。応援はしてますけど、ちょっとやっぱり」と、テレビをつけるとAKBが出ていたため、テレビを観られなくなり、代わりに映画『セックス・アンド・ザ・シティ』ばかり観ていたことを明かした。

その後、SDN48は2年半で解散。同時に野呂のアイドル人生も幕を閉じ、俳優への道も遠のいた。AKBグループの看板がなくなっても、なんとか芸能界にしがみつきたいと受けた仕事は、俳優の仕事とかけはなれたダイエット企画。1か月で4㎏痩せるも、スタッフからはマイナス10㎏を求められ、さらに「もうちょっと痩せたらデートしてもいいのにな」といった失礼な言葉をかけられ、限界を感じた野呂は、その場を立ち去ったという。
一緒にラジオをやっていたスタッフに野呂が送ったメールには“痩せられないのが恥ずかしいけど心も折れて、誰からも認めてもらえなかった。やっぱり歌とかで世に出たかったな”と書いてあった。
そして野呂が“腐り度マックス”だったという仕事が、アイドル時代にはなかったパチンコ営業。パチンコ屋を1日5軒まわり台を紹介。パチンコ屋やお客さんには申し訳ない気持ちになるが、どうしてもやる気を出せなかった野呂。「やりたいこととは全然違うな、みたいな感じで。ここからどんな未来があるのかが見えなかったです、まったく」と当時を振り返った。
30歳手前でどん底の時期を迎えた野呂。「お母さんはやっぱ、もう辞めてさ、みたいな。なんか好きなことやればみたいな」と声をかけてくれたことを明かした。
「めちゃくちゃ辛いんです。本当に辛かったんです」と当時の苦しかった心境を振り返った野呂は「本当に奮闘している中で、お母さんが一番支えてくれたのがうれしくて」と、ずっと応援してくれた母を思い出して涙を流した。
写真提供:(C)日テレ文:entax編集部