三遊亭円楽さんお別れ会 寄席のようににぎやかに「生涯忘れない」

2022.12.5 19:30

今年9月に72歳で亡くなった落語家の三遊亭円楽さんのお別れ会が12月2日に東京都千代田区で行われた。円楽さんが出演していた「笑点」メンバーを始め、親交のあったおよそ600人が訪れて花を手向けた。
祭壇は円楽さんのテーマカラーの紫と白の花で飾られ、真ん中には紫の座布団が「笑点」の番組中で満点とされている10枚積まれ、円楽さんが笑顔で高座に上がっている姿を収めた遺影が飾られた。

祭壇の中央には紫色の座布団が10枚積まれた

円楽一門が寄席に出演できなくなってからも寄席を愛して止まなかった円楽さんを送るため、交流の深かった人たちが名前の書かれためくりと出囃子(でばやし)と共に登場、にぎやかに思い出話を披露した。

三遊亭小遊三

三遊亭小遊三はこの日の早朝に日本がスペインに勝利したサッカーワールドカップ、森保ジャパンになぞらえ、「円楽さんと森保監督には采配の妙があった。『博多天神らくごまつり』を始め、さまざまな落語会でプロデューサーとしての才能を発揮し、博多の落語人口を発掘した。円楽さんは日本チームと同様、これからが決勝トーナメントでもっと力が出るはずだった。残念だが向こうで歌丸師匠をおもちゃにして待っていてもらえたら」と語った。

春風亭昇太

春風亭昇太は「大学1年生のときに、当時まだ二ツ目(若手の落語家の階級)だった楽太郎(円楽さんの前の名)の『船徳』を聞いた。きれいな感じの若い二ツ目さんがのびのびやっていて、落語は古臭いものではないと感じた。私が所属していた東海大の落研と円楽さんが所属していた青山学院大学の落研は仲が良く、入門してからも可愛がってくれた。円楽さんを一言で表すと“すごくお金を持っている男子高校生”。好きなことにまっすぐで、落語、笑点、プロレス、全てにまっすぐだった。仕事が大好きで仕事ばかりしていて、円楽師匠が疲れたと言うから休んで下さいと言ったら、休んでゴルフをやっていたり、休んでいない。とにかく動いているのが好きな師匠だった。もっとゆっくり休んで欲しかったけれど、自分の性分を貫いた素敵な人生だったと思う。」

林家木久扇

林家木久扇は「円楽さんの思い出と言えば、ハワイ。コロナ前は年に一度家族でハワイに旅行に行ったが、円楽さんも親子で来ていて、よく親子連れでお店に案内してくれて、いつも景観のいい店、美味しい店を予約していてくれてごちそうしてくれた。それから負けず嫌いで、僕が「ラーメン党」を作ったら対抗しようと「日本ごはん党」「腹黒ラーメン」を作って挫折していた。私の師匠の八代目林家正蔵(林家彦六)師匠が好きで、円楽さんが真打になったとき、もう落語協会を出てしまっていたが、(八代目正蔵)師匠が円楽さんの名前の書かれた祝儀袋を長火鉢の引き出しに用意してくれていた、とよく私に話していた。」木久扇はその八代目正蔵師匠のモノマネで円楽さんをしのんだ。

三遊亭好楽

同じ円楽一門で52年の長きに渡って苦楽を共にした三遊亭好楽は「円楽の訃報が入って急いで自宅に行って顔を見たら、国立の最後の涙ながらの高座の辛そうな顔が全く消えていて、楽になったんだなと、誰にも告げずに亡くなって、お医者さんも家族も看取ることのできないかっこいい亡くなり方をした。てめえこのやろう、なんで先に逝くんだ、と言ってやった。亡くなったときのあの顔は生涯忘れない。」と語った。

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